キンゼイ会長への追悼文
日本のすべてを心から愛し続けた(IFCA代表 松本道子)
愛犬、ロス生まれの金太郎とキンゼイ会長(IFCAにて)
1962年シアトル世界博覧会開催中、ある親日家のアメリカ人夫婦が私の長兄、松本晃が勤務する日本館を頻繁に訪ねて来たのが縁で、彼らの訪日の際東京の我が家で初めて出会ったのがキンゼイ夫婦であった。その又数年後彼らが私のアメリカでの両親という最も近い存在になるとは想像もしなかった。
彼らのカリフォルニアの家の扉を開けると枝振りの良い松の木や大小の灯籠が並ぶ日本庭園が目に飛び込む。後方には広大な太平洋を一望できるその環境は別世界であった。大学に通いながらもアメリカ文化とその優雅な生活に浸り、英語の表現方等学ぶ毎日だった。“マイ・フェアー・レディ” のイライザのような気分だった。キンゼイの勤務先である航空会社の役員やその家族との交流、また多くの著名人と接する機会も与えられた。家には日本の家具(障子、書棚等)が設置され、日本の美術品があちら、こちら上品に陳列されていた。“根付” と言う代物に初めて触れたのもこの時だった。手の中に入る限られたサイズの象牙に彫られた日本人の繊細な技巧とアイディアには魅せられた。キンゼイ夫人の初版である “現代根付” の出版に際して多くの根付師と面談し、種々の資料集めをするなどの協力ができた。その後も夫婦は根付に関する美術書を数冊出版している。彼らは世界的に最も著名な現代根付蒐集家としても知られている。
私は“イライザ” にはほど遠かったがIFCAを1974年に設立し、今日まで継続できているのは米国留学中のキンゼイ家での生活が基盤になっている。キンゼイは第3代IFCA会長として1993年から亡くなるまで多方面で協力してくれた。私にとって50年余の彼の存在は大きな支えになっていた。毎年父の日のカードにはその感謝の言葉を私なりに表していたがそのつど “It's a two-way street!”(“お互い持ちつ持たれつ!”)と言う言葉が返って来ていた。
この3~4年毎週日曜日の国際電話での会話がお互いに楽しい貴重な時間になっていた。亡くなる数週間前にキンゼイは私に初めて語った。“アメリカは戦争中、日本に対して酷い事をして来たにも拘らず多くの日本人は私にいつも心温かく、親切にしてくれた。感謝。”私は即答した。“It's a two-way street!”
キンゼイの日本との関わりは5~6歳の頃父親に連れられて鉄道会社で働く日系移民家族と数日間過ごした時から始まった。日本の全て(人々、芸術、文化、伝統的習慣、富士山、料理、お酒等々)を心から愛し続けた。一方では、醜い争いごと、暴力を嘆き、いつも平和を願って来たロバート・キンゼイの一世紀あまりの生涯に敬愛の念すら抱いている。
キンゼイ会長は去年9月5日に白寿を迎え、その約3週間後の9月28日に召天した。入院生活わずか1日半の見事な旅立ちであった。
ロバート O. キンゼイの経歴
1916年9月 シカゴ生まれ
ロチェスター大学卒業、ハーバード大学院経済学部卒業
第二次世界大戦直後東京、南京に米国合衆国空軍将校として赴任
米国合衆国航空局局長、ウェスタン航空会社取締役を経て、社長歴任
国際根付ソサエティ理事を経て会長歴任
著書:“根付にみる詩歌”、“根付師ー高木喜峰”、“緒締”
国際親善文化協会理事を経て会長歴任
2015年9月 シカゴにて没
ありがとう、ジェントルマン!
犬をこよなく愛していたキンゼイ氏でした。
飼われていた仕舞いっ子のSushi-san III を介して時折手紙の往復を楽しんでいた私です。と言っても英語が解らないので2~3単語を並べ、イラストを描いた態のものですが……。
2015年8月31日に出した手紙が最後になりました。
ウェスタン航空機のタラップを下りる若き根付師達をロスアンジェルス空港で出迎えるキンゼイ氏(筆者左側)
初めてお会いしたのは1971年11月7日、大手門近くの一室、緊張していた私の目に飛び込んで来たのはスクリーンから今抜け出して来たかと思わせる人でした。ゆったりとしている中にキリッとした理に裏打ちされた穏やかさを漂わせて……。勿論IFCA代表の松本道子さんの通訳があってのお話ですが……。それから44年に及ぶお付き合い。ご夫妻は根付のいわゆる骨董ではなく現役の多くの作者の物を蒐集し、その制約の中の表現の楽しさ、繊細さ、そして独創性を喜ばれていた様です。又、それらの思いを繰り返し各地で講演し、記事を書き幾冊ものそれを上梓されました。根付を米国各地へ広める礎を築いてくださいました。
私の根付創の半世紀余りの人生、キンゼイ氏無しでは成立しません。心より感謝申し上げ、一足先に旅立たれたミリアムさん、それに愛犬達(金太郎、淀ちゃん、スキさん、スシさんI、II)と現代根付について談笑されているのでしょうかと思い巡らしつつ筆を置きます。
根付彫刻師 立原寛玉
故ロバート O. キンゼイ追悼会
遠方からの根付彫刻家の皆さんとの偲ぶ会
根付彫刻関係者の方々
根付作家を招いての追悼会が去る11月22日に行われました。氏は亡き奥様と共に現代根付蒐集の第一人者として知られる通り、40年以上親交のあった作家さんから収蔵品に近年加わった作家さんまで、関東ほか四国や北陸から総勢17 名が駆けつけました。彫刻家はもとより金属、漆芸、芝山細工の作家もいて、氏の人脈と蒐集品の幅広さを物語っています。氏の娘同然だった松本先生ならではの計らいで、生前ご愛飲の日本酒「松竹梅」の献杯に始まり、先生お手製の豆サラダなど、氏の好物を味わいながらの和やかな会となりました。写真が映し出される中、各人が興味深い思い出や氏に対する熱い想いを語って下さいました。氏が日本を愛する気高い紳士であり、現代根付界の恩人としていかに大きな存在だったかを知るとともに、松本先生の個人的エピソードの数々や長年取引のあった牧野さんの意外なお話などを通じて氏への親しみが増し、感慨深い追悼会でした。
駒田牧子(元IFCA生徒、現通訳、翻訳家)
IFCA会員との偲ぶ会
去る9月29日逝去された会長を偲んで多数の方の列席のもと、11月23日午前11時半より追悼会が日本で行われました。
献花、開会挨拶、黙祷、会長ご自身のビデオ紹介の後、食事をはさんで各自思い出を語りました。当時高校、大学生としてのホームステイでお世話になった話、ロスアンジェルスの御宅に伺った話、日本通の会長の根付の東京での講演会、クラスでの各一人づつアメリカへの直接電話会話等つづきました。
日本とアメリカと場所は離れておりましたが、メッセージ、手紙、各クラス用の単語監修など多くのことに関わってくださり、格調高い英会話を学ばせていただいたかを改めて知り、思い出の尽きぬ中、午後2時に閉会となりました。心温まる追悼会でした。
村野薫(木曜午前クラス)
追悼句
人生を凛と生きぬき天命と白寿男の追悼の会
(鶴岡紀江、 火曜午前クラス)
故キンゼイ会長とIFCAのあゆみ
1975年
創立1周年記念の親善パーティ中央はキンゼイ夫妻と松本代表
1978年
イフカ主催の「岡田紅陽富士百景米国、欧州巡回写真展」
キンゼイ理事(当時)の協力なくしては実現不可能だった。カリフォルニア州立自然科学博物館、キンゼイ夫妻とIFCA代表松本道子
1979年
第1回 米国親善旅行
シアトルを皮切りにサンフランシスコ、ロス、サンディエゴを車で親善旅行キンゼイ夫妻の招きでビバリーヒルズのホテルにて夕食会
1985年
国際親善パーティキンゼイ夫妻とその友人を招きIFCAにて歓迎会
第2回 ホームスティロスアンジェルス空港にIFCA生徒一行を出迎えてくれる
1993年
キンゼイ会長就任記念講演会
講演前週ロスの山火事で避難していたにも拘らずIFCAでの講演会を強行。参加者は90名以上だった。
2005年
米国親善旅行
(左)キンゼイ宅訪問、IFCA会員による日本舞踊、華道を披露
(右)愛犬、スシIIと日本舞踊を鑑賞
2015年
IFCA留学生会館への新入生と面談キンゼイ会長の自宅(シカゴ)を訪ねたキアナと母親
キンゼイ会長の白寿を祝って写真アルバムをIFCAから出版
写真アルバムを手にして喜ぶキンゼイ会長
松本崇大村市長急逝
IFCAの母体である国際フレンド会館創立者松本寅一の次男であり、IFCA 代表の次兄でもある松本崇氏は昨年9月25日大村市長6期目在職中急逝した。亡くなる数日前まで議会での答弁など精力的に活動していた。多くの市民に愛され、慕われ,尊敬され、3000名以上の弔問を受けた。74年の生涯は正に波瀾万丈であった。中学生でキリスト教の洗礼を受け、その信仰が彼を支えて来たと思う。11月3日イフカ会館にて氏の友人たちが集まっての追悼会が催された。
益田羊子(IFCA会員)
1990年天正少年使節団400年記念行事を企画し団長としてスペイン、ポルトガル、イタリアを巡礼した。ローマ法王とも謁見。